この度、この思いにご賛同いただいた、多くの落語家が所属する、よしもとの皆様と共に、
それぞれの思いが詰まったこの作品が、日本の家族団らんに 彩りを添えることができましたら幸いに存じます。
駄菓子は、その地方特産の米穀類や豆類、胡麻などを主原料として、それに黒砂糖や水飴で味をつけた庶民的で素朴な菓子の総称です。
四季を重んじ形や色や味で季節感を表現する駄菓子が多く、地方ほど色彩がきつく、 風味は他のいかなる菓子にもない異様さを持ち、濃厚なものほど意義が深いものです。
駄菓子が生まれたのは文政の頃と云われており、国花万葉記に雑菓子とという言葉が記されております。
江戸時代、武士は貧乏で町民は裕福であったため、幕府はあらゆる手段で町民の生活を抑圧し、例えば庶民が食べる菓子には「一切白砂糖は使用できぬ」として、雑菓子以外は食べることができませんでした。駄菓子の駄は粗悪なもの「つまらぬもの」と軽蔑思想が生んだ言葉です。
言葉としての「駄菓子」ができたのは明治の頃と云われています。
幕末の頃から砂糖の生産が増え始め、明治になると台湾からの輸入により、貴重品だった砂糖を安価な値段で使えるようになりました。
これにより黒砂糖、ざらめ、天光などを使った白砂糖の価値も落ち、しょうが糖や金花糖、金平糖も上菓子から駄菓子へと変化していきました。
紫波という地名は、その昔、天正年間(1573〜1593年)の頃、郡領主の高水寺城主さまが北上川の流れに御神社「赤石」を名付けられ『今日よりは紫波と名付けん この川の石に打つ波 紫に似て』とよみ、それから紫波と改められたと伝えられており、
これらの駄菓子は、庶民にとって身近で手軽な菓子であることから「一文(いちもん)菓子」とも呼ばれておりました。
こうして伝えられた駄菓子文化を私たちは大切にしたいと考えております。
皆様にとって私たちの作る駄菓子は、身近で家族のような存在であってほしい。
そして、わけはないけど好き、
という愛着を育んでまいりたいと存じます。